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2005   
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85/05−幻のつくば写真美術館からの20年
資料室より


「あるコレクターの夢」石原悦郎


個人が美術館を作るなどという事は、ほとんど愚かな事だと思っている。砂漠に氷の城を建てるのと同じだ。絵空事から始まって、進んで行くうちに無限のお金や人材、それに労力が必要な事が分かる。
1978年、壮年期であった私の周辺には、こんな私の妄想に興味を示してくれた若い写真好きの人が幾人もいた。そして状況的には、細江英公氏が写真の新しい展開の仕方を主張していた。いわゆるオリジナルプリントである。ジャーナリズム一辺倒の写真を、美術館やギャラリーという新しいメディアに結合するという氏の発想は新鮮であった。私は自分の周辺にいた伊藤俊治、飯沢耕太郎、金子隆一、横江文憲、平木収、それに谷口雅の諸君とまず、写真の勉強会を持った。月に1、2回、銘々の興味あるテーマについて、担当者が意見を発表するのである。途中夕食のトンカツ弁当を配るのが私の役目であった。彼らのいずれもが自信ありげに自らの担当部門について、熱弁をふるうのは聞いていて頼もしかった。この勉強会が1年程続いた時、私は1985年開催予定の世界科学博(つくば学園都市)に合わせて、日本で最初の写真美術館を開催したい旨をみんなに相談した。全員が興味を示した。勢いづいた私は、専門の研究は彼らに任せたまま、欧米に作品収集のために出かけた。特にパリは画商として以前から何回も訪ねているので、収集活動はお手の物だった。ブレッソン、ブラッサイ、ドアノー、ケルテス、W・クライン。
ブレッソンは朝、昼、夜と発言がまるでカメレオンのようにかわるデリケートな一面があって、初めは正直言って面食らった。しかし、氏の強靭なリベラリストとしての性格が何よりも私を虜にした。又、それを知ったブレッソンが私に対して寛大になったのは、予期せぬ幸運であった。ブレッソンの被写体に集中する眼は鋭く、シャッターは一瞬のうちに切られていた。パリのどこにでもある小さなレストランで、ジタン(ジプシー)の親子をカメラに収める時のブレッソンの俊敏さは、とても筆舌に尽くしがたいものがある。又、氏はモノクロで人物や風景をよくデッサンしていた。人々はどちらかというと、彼のこんなデッサンをあまり取り上げなかったけれど、私は今でもすばらしい作品だと思っている。
ブラッサイはパリに出て来た異邦人だ。それだけに彼の作品を求めて、日本からやってきた私に対してことさら優しかった。南フランスの氏の別荘にも何度か招待してくれて、H・ニュートンやB・ブラントを私に紹介してくれた。ブラッサイは写真における“光の配置”について、何度も私に具体例を上げて説明してくれた。私は今でも霧が出た夜や、窓から入る朝の光線を目に受けると、ブラッサイの事を思い出す。
思い出といえばもう一つ。不思議な空間の記憶。それはロンドンのフォランドパークにあるB・ブラントのアトリエだ。時が静止し、わずかな明かりが室内に集まっている彼のアトリエ。そこで氏はいつも私を待っていてくれた。氏の話は若い時代にパリでマン・レイの知遇を得た事、そしてマン・レイのアトリエで出会った超現実主義の人々の事だった。ブラントは自分の作品はすべてここから発生しているんだと私に説明した。
私が出会った偉大な写真家の中で最も気軽に接する事が出来たのは、ケルテスだろう。わざわざパリの私の安宿に一緒に泊まりに来て、そこにいる若いカップル達を裏庭から盗撮(?)していたのだ。私と目が合うと、にっこり笑っていた。でもブレッソンはこんなケルテスの事を“自分の写真の父”といって、常に敬愛していた。
私のパリでの写真収集に力を貸してくれたのは、現像技師のP・ガスマンとマン・レイの秘書だったリュシアン・トレイアール氏がいる。前者からは20世紀後半50年間のフランス写真界の縮図を学ぶ事が出来たし、後者からはマン・レイの奇才ぶりとその周辺の超現実主義者達の新鮮なエピソードを聞かされた。例えば写真家として活躍したが、本業は医師であったボワッファール。彼は作風から奇想天外な人物のように思われがちであるが、善良な一市民であった。それでも氏の作品数が極めて少ない事を知った画商達は、氏の医師時代の医療行為写真撮影までボワッファールのシュール作品として喜々として売買の対象としたのだ。
話をN.Y.に移そう。私がメイプルソープの作品を入手したとき、作品の売買行為に立ち会ったのは、パトロンのワグスタフだった。日本の人たちがその名前さえまだ知らなかった1979年、突然示されたメイプルソープのスカルファックの作品には、度肝を抜かれる以前に何の写真か解読する事さえ出来なかった。
気難し屋のR・アヴェドンは私がブラッサイ作品の信奉者である事を知ると、満面に笑みを浮かべて私の注文に応じてくれた。氏の写したマリリン・モンローはこの世の中のマリリン・モンローの写真のうちのスーパーベストだと私は思っている。
R・フランク。彼は偉大な芸術家であると同時に、教育家でもあり、時にはエゴイストであった。しかし氏の作品に接すると、こんな先入観は霧散してしまうのが常であった。
これら欧米の作品の収集に比較すると、日本の写真家の作品集めは予想外に骨が折れた。特に物故の著名写真家に関しては、この事は著しかった。こんな時はこれらを専門分野とする、金子隆一君や飯沢耕太郎君の尽力の他、新聞社の編集長や、長老写真家たちの援護射撃がどうしても必要であった。日頃からアートメセナという名の下に芸術に門戸を開いている資生堂や、地方のモダニスト植田正治、塩谷定好、島村峰紅、そして戦前のアヴァンギヤルド安井仲治のファミリーは、我々の美術館構想に理解を示してくれた。
最後に日本の若手について語ろう。杉本博司、森山大道、荒木経惟の3名は私にとって、現代写真とは何か、という問いを突きつけた。杉本は常にユーモア(皮肉)に満ちていた。私を訪問する度に進行中の作品の説明をしてくれる。例えば次のように。「石原さん、写真は決定的瞬間だよ。」といってニューヨーク自然史博物館での生態模型の作品を見せにくる。又、あるときは「見る人の視線を遭難させると面白いんだよ。」といってシースケープの作品を持って来る。」この頃、たまたま彼の母上が来廊して私に「息子の将来性はどうなんでしょうか?」と尋ねられたことがある。もちろん私は肯定的な返事をしておいたのであるがしかし、彼がこれほどまでに著名な作家になるなんて、夢を見ているような気持ちだ。
傑作なのは森山大道。氏は数回作品を担保にして借金の無心に来た。その担保物件はわずか数年で10倍以上の価値を生んでいる。これも又、私にとって夢のような話である。
荒木経惟。氏はなかなかの悪漢で、周囲の友人に絶えず緊張感を与える。私も最初、氏の個展の時、中央警察署に呼ばれて刑事さんの尋問を受けた。刑事曰く「どんなカメラを使えばこんな写真が撮れるのかね、君。」その時私はなんと答えたか忘れてしまったけれども、とにかく荒木の反骨精神と熱血性には限りない尊敬の念を抱き続けている。
1985年のつくば写真美術館は、上述の6名の熱心な研究家の成果をもって開設された。6ヶ月間熱心な写真愛好家の訪れる場所として、その務めを無事終了した。個人的な事だが、主催者の私個人には莫大な借金という大きな付録が残された。
写真は作家、評論家、美術館、学芸員、収集家、アートコーディネーター、そしてギャラリストという種々のメディアと結合しながらIT社会の加速的な情報伝達の中で、コンセプトの再構築や、コンテンツの選択基準という今日的な問題と今や対面している。そして2005年4月現在、私は中国の現代美術というパンドラの箱を開けてしまった。つくば写真美術館構想から約25年間経過した現在、果たして写真はどのようなHappningに 遭遇して行くのだろうか。